昭和49年03月29日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心は見易い物じゃが、みな氏子から難しゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、我ながら喜んで、わが心を祀れ。日は年月の始めじゃによって、その日その日のおかげを、受けて行けば立ち行こうが。みやすう信心をするが良いぞ。」
「みやすう信心をするが良い」どうして信心が難しい事になるのかと言うと、おかげを受けねばならんと思うから難しいのです。信心は、おかげを頂かなければ、だから難しいです。信心とは、例えば此処にも有ります様に、「三年五年の信心ではまだ迷い易い。十年の信心が続いたら、我ながら喜んで和賀心を祀れ」と仰せられる様に、和賀心が祭れる様になる稽古なんです信心とは。自分で自分の心が拝めレる様になる稽古なんです。おかげはその心の影の様にして着いて来るもんなんです。
それをおかげの方を前に押し出して、おかげを受けなければならんから是はどうでもと、こう思うから信心は難しゅうなるとのです。私はその事を今日は改めて気付かせて頂いた気がします。それでもなら私共は矢張り実意を以て教祖様は願えと、それはもう身の上の事言わば牛馬の事に至るまでとこう教えられるのですから、日々の生活の中に様々な問題または難儀あぁあって欲しい、こうあると良いと云う願いを持たないものはありません。ですからそこが御取次の働きだと思うんですね。
そこが御取次を頂く所からです。それに対する執念の様な物が無くなって来るおかげを頂きたいですね。「どうぞおかげを頂かして下さい」と、言うて御取次を願ったらね、いわゆる御取次を頂いて帰ると云う事なんですね。もういわゆる親先生にお任せしたと云う感じなんです。そして御取次を頂いて、いわゆる神様の思いと云うか願いと言った様なものを頂いて帰る。言わば、み教えを頂いて帰ると云う事なんです。み教えを頂いて帰ると云う事は、もうそのみ教えその物が有難いのであり。
み教えを行ずる事が日常生活の中にね、事が楽しいのであり、有難いのであると云う事でなからんとね、信心は難しい事になる。その中に自分の心が信心に愈々向うて行き、心も段々暗い心は明るうなって行き、言うなら研かれまたは改まらして頂いて行く、そう云う信心を目指さして頂いたらね、間違いなしに十年経ったら、和賀心が祀れれる様に成ると私は思うね。皆さん信心をね難しいものにしちゃあいけません。信心はもう楽しいものそりゃ人間のね、難儀と云うのは様々あるんです。
お天気の良い日もあれば、厳しい寒さの時もある。暑い時も有ると云う訳なんですから、けどもその暑さ寒さはね、いかに有難く受けて行くかと云うのが信心なんですから、どうぞ暑なりません様に、寒なりません様にと云う事じゃないのです。それでも、私共はです。言うなら、願いと云う物を一杯感じます思いますから、其処に私は御取次の働きと云う事。御取次を頂くと云う事。金銭のお繰り合わせも良かろう。病気災難を逃れることの願いも良かろう。そして御取次を願う所にです。
いわゆる「心配する心で信心せよ」と仰る。その心配する心を此処へ持ってきて置いていって、帰りには喜び、安心と云うそう云う物を頂いて帰る。教えを頂いて帰る。その教えを頂いて、教えが行じられる所から、日常生活が楽しい物になって来る。今までの生き方と全然変わって来る。物の見方も考え方も変わって来る。今まで苦しいと思っておった事は、さほどに苦しい事ではなくなって来る。いやどころではない。却ってお礼を申し上げたい心すら湧いてくる。それが信心なんです。
だから信心は楽しいのです。有難いのです。だから難しいないんです。それを私共がおかげを頂かねばとこう気張ってるからね。信心が難しゅうなる。私はそれを今日は本当にそう思うです。昨日は竹葉会、若い奥さん達が皆集まっての信心共励、あの秋山さんの所の娘さんの剃子さんが、福岡の方へ行ってます。それに子供が三人、一番上が今年から小学校三年生になる。それでこの四月一日の勧学祭から、丸少に入れてもらいたい。母親がしきりにそれを願う。子供もそのう入りたいけれども。
合宿やらの時に泊まりきらんと言う。それでも母親は「どうでもやっぱり少年少女会に入れたい」とこう言う。まあ一家中で話さして頂いて、主人が言う。「そげん行かんちゅうもんば、泊まりきらんと言うもんば、無理してやらんでん、まちっと大きなってからやりゃあいいじゃないか」とこう言う。それで剃子さんの方、家内の方はどうかしてやりたい。自分が一緒に着いていて泊まらんなん日は一緒に泊まってからでも、子供を信心の雰囲気の中にお育て頂きたいと言う願いを持っておる。
所が主人は、「そうせんでもいいじゃないか、自分で行ききれる様になってからでいいじゃないか」とこう言う。「そうたいなあ、そん時はやっぱりなあ、あんたが一時ばかり一緒に来てから、一緒に泊まって、そして自分も一緒に信心が出来るから、そうさして頂くと有難いねえ」と言うて御取次をさして頂いた。そしたらそのすぐ次に、麻生さんがやっぱり、子供三人連れて参ってきた。此の人も福岡から参って来る、こっちも同じ年配もあんまり変りません。子供も三人。
あそこも今度丸少に入るのです。一番上が、もう子供も楽しんでおるし、主人も喜んでおるし、それでその準備で、もうー子供は子供なりに大わらわである。もう丸少に入られると言うてもう嬉しゅうしてこたえん。そのね、嬉しゅうしてこたえんと言う、三人の子供を前にしてです。そのお母さんの方が、自分自身の方が、嬉しゅうしてこたえんと云う様な感じで、お届けをしました。その時に私が頂いたのがこう云う句でした。[子と遊び、夫と語り、妻の春]この句からどう云う物を感じますか。
もうそれこそ、あのー、一家中が楽しゅうてたまらん様な感じですね。[子と遊び、夫と語り、妻の春]子供が今年から少年少女会に入れて頂ける様な歳にならして頂いた。それを若いお父さんとお母さんが色々それを楽しんでおる。子供も子供なりに、いろんな丸少に行くならこげな勉強もしとかんならん。こげな事の知っとかんならんと言うて、もう家の中がその為にもう何か嬉しゅうして答えんと云う感じである。いや子供よりもお母さんの方が楽しいと云う感じである。
私が思わせて頂くのにね。其処に信心のそれぞれの段階がありますから、どう誰の真似と云う事はありません。例えばなら今、島野さんと麻生さんですけども、ちょっと信心が島野さんの方がずれて遅れておると云う感じがしましょう。いわゆる主人の方の信心がちょっと遅れておると云う感じです。麻生さんの方は、麻生さんの信心に家内も子供も付いて行く事が、もう全然抵抗なんか勿論ありませんが、有難いとしてそして子供が丸少に今度から入れれると云う様な事が一家中で楽しんでおると云う感じ。
そう云うね雰囲気の中に、子供が信心のいわゆる信心の継承が出来て行く。それが有難いのだ。と言うのが暗に夫婦の心の中に通うておる。いわゆるその麻生さんの信心の様な在り方に皆がなれたらね家族中がなれたら、信心は嬉しゅうて楽しゅうて、云うならば信心はみやすいものじゃと云う事になるのじゃないでしょうか。それはね誰の所まで進まにゃならんと云う事はありません。もうそれなりでいいです。ね。必ずお昼参りが出来なければならんと云う事もない。
必ずお月次祭に参らんならんと云う事もない。けれどもそれぞれの信心の程度に応じてです。月の内何回かはお参りさしてもらう。お月次祭だけはどうでも。いや朝の御祈念にだけはどうでもと云う様に、その人の信心の過程其処ん所でね、私は信心を楽しい物にしながら、信心を進めて行かなければいけないと思うです。勿論少しはね少しはね、少しは眠たいけれども、少しは手が届かんけれどもと云う修行は絶えずしとかなければ斬新なものが生まれてまいりませんね。
あんまり楽な信心だけではいけません。月次祭だけでまだ朝参りも出来ないと云う程度の人ならば、一遍朝参りにお参りしたいと云う意欲をやっぱり燃やさなければいけない。そして、一足飛びにと云う事はいらんから、少しづつ信心を進めて行く、その進めて行く時点でです。その時点で信心ちゃ有難い物ねとか楽しい物ねとか、と云う様な信心を頂いて行かなければならんと思うです。それにはねおかげだけが対象であると、信心は非常に難しいものになって来る。歯を食い縛った様な信心になって来る。
そう云う信心が長く続くはずはない。いわゆる信心が身に付いて来る。信心が頂ける。しかもそれは家族の信心に段々なって行く。島野さんの所の家なんか、中々ご主人の方も良い信心します。けれどももう一ちょう、一にも神様二にも神様と云う所迄行っとるけれども、三にも神様と云う所の感じがない感じが致しますね。三の所ではもうそげん無理せんでんと云う所になって来ておる。
だからもう一段島野さんの信心が出来たら、麻生さんの様な、いわゆる子供たちが向学心と共に信心を身につけて行く、信心を身に付けるなどと云う様な難しい事ではないけれども、信心の雰囲気をこよなく楽しんで子供が合楽通いをする様になる事がね、一家を挙げて楽しい事に成って来る。いわゆる、妻の春である。お互いの信心を検討させて頂いて、信心が難しい物だと難儀その物は、それがどうと言う事ではない。けれども信心の心がだんだん進んで行くと云う事。
言うならば「金光様の御信心は、ご利益を言うてはならん。おかげを言うてはならん」と言うのではなくて、本当は金光様の御信心は、ご利益がもう本当に、あのう何と云うですか、信心はそのうおかげおかげじゃない」とこう教えられながら、実を言うたら、おかげがふんだんに頂けれるのです。だからそのおかげに例えば終始してしまうと、けれども信心は難しゅうなる。肝心な所へ着眼すると云うか、焦点を置いて言うならば信心の稽古をさして頂くとです、信心の稽古その事が楽しゅうなって来る。
と言うて日々感ずる所の願い事か難儀と云う物は御取次を頂いて、其処に御取次の働きを信じさしてもろうて、「御取次を頂かずして起きて来る事良い事悪い事皆悪い」と、「御取次を頂いて成す事良い事悪い事皆良い」と云う様なです、言うなら信心が出来てくると、御取次を頂く事だけによって既にそこに安心を頂いて帰る。そしてみ教えを頂いて帰る。御取次を頂いて帰る事が出来る。其処に教えと共に日常生活がまた新たに展開されて来る。其処に信心生活の楽しさ有難さと云う物が出来てくる。
そう云う信心がです。成程十年続いたら確かに我ながら心を祀れれる様なおかげが頂けるだろうと思います。今日私はね其処ん所を「信心は見易い物だが」と言うが所が実は難しい。と言う人はもう必ずおかげを受けんならんからと云う気張ってるから、自分の思う事なりゃ有難いですけれども、思う様にならないとやっぱりきつなって来る。ですから信心を愈々見易い物に楽しい物にする為にです。おかげと云うのは、御取次を頂いて、御取次の働きによって右左はもう言うなら親先生任せであり。
神様任せであると云う楽な気持ちになれると同時に、頂いて帰った信心を生活の上に表して行くと云う様なおかげを頂いたら、もう本当に生活の様子と云うか、いわゆる、物の見方・考え方やらも、有難い見方・受け方が出来る様になって信心が楽しい物になって来る。それぞれの信心の段階を追うて信心は進められる物ですけれども、自分の頂いておる信心をその所で有難く楽しい物にする。それにはまずおかげを受けなければならんと云う、まずは信心ではなくて信心を頂かなければならんと云うのが。
真の信心だと判らして頂いて精進して参りましたら、麻生さん所の信心が一家を挙げて熱心と云うと、ひょっとして皆さんの方が熱心かも知れません。朝参りが出来られると云う訳でもなし、いわゆる時折朝参りをして来る様な事。家内は月次祭と自分たちの色々な会合の時に出て来るだけぐらいのな事。その時点でそれでも信心は見易い者であり、楽しいものであると云う物を感ずるでしょう。それがまた一段と次の高度な信心に進んで行けばいいのです。
どうぞ。